妹を統一協会から脱会させてくれた高澤牧師の、5回目の供養をしました。
ご購読者様には2通の通知メールが送信されまして、申し訳ありませんでした。
2通目にはURL変更のおわびを書いたつもりでしたが、同じ文面で送信されてしまいまして大変申し訳ありませんでした。
これまでのいきさつは、こちらです。
高澤牧師の供養と会話、5回目
【私】どのようなご様子ですか?
【高澤牧師】私の様子が良くないと思われているようですが、まあまあなのです。
いつものように過ごしています。
今までとあまり変わらないのですね。
そうです。
ご自分についてこようとされる方々に対しては、どうされていますか?
私を慕ってくれるのはいいのですが、私の言う通りにしないといけないとは言わないでいます。
ご自身で考えて、自分の良いようにしてくださいと言っています。
心の中から突き上げてくる思いは、どうなりましたか?
もういいのではないかと思うようになりました。
そのようにしても、私にはわかりませんでした。
何かが来ても、私にはよく理解できないのです。
うそをつくようになられたと言われていました。
今はどうなりましたか?
私をうそつきと言う人は少なくなりましたが、まだ多少はついていると思います。
一緒についてくるかどうか聞いてくるような人は、出てきましたか?
私をこのままここに置いて出て行こうという人がいました。
その人は、その世界から出て行かれたのですか?
私を置いていくのは残念だと言いながら、仕方なく行きました。
そうですか。
時々成仏される方がいるのですね。
そうなのです。
いなくなってどこへ行くのかと言うと、たぶん別世界なのだろうと思います。
心の中がスッキリすると、そこへ行くことになると思います。
そうですか。
今スッキリしないことは何かありますか?
私を置いて行く時に残念な思いでいたのが印象的でした。
その人は、ここにいることが良くないことがわかったのだろうと思います。
それが私をここに置いておくことを残念がる理由だったのでしょうか。
違いますか?
私を置いていかなければいけないのは、その人の心の中を知っている人がいなくなるからではないかと思いました。
友達がいなくなるから寂しいということですか?
そうなのではないでしょうか。
それもそうでしょうね。
それだけではないと思ったのが、あなたでした。(霊は私が考えていることがわかります)
そう思います。
その人が成仏するということは、その人は成仏している人達と同じ感覚になっているからです。
その感覚は、今高澤様がいらっしゃる世界とは少し違っていて、もっとスッキリして幸せな感覚なので、高澤様がそうではないことは残念に感じるだろうと思います。
そうなのですか。
友達として同情してくれているというのですか。
それもあると思います。
そして、一緒にいられないことを悲しんでいるのでしょう。
でもその人は、ここにいないのがいいことだと思われたのですね。
そうです。
あの人は私を置いて行くことを、置いてきぼりにすることが罪なことだと思っていましたか?
私が知っていると思われるのですか?
違うのかどうかがわかるかなと思いました。
それもあったかもしれませんね。
その気持が、高澤様が周りの人のことを気にかける気持と同じなのですか?
そうだと思います。
置いてきぼりにすることは罪なことだと思いますか?
そうなのかどうかが、わかりません。
相手の自由を尊重するというのが大切なことだと思います。
そうなのですか。
そこにいたいという人は、そうさせてあげるといいのではないでしょうか。
それは置いてきぼりではないという意味ですか?
そうです。
そして、ご自分の気持も尊重するということです。
それができれば、何も悩むことはないのですね。
そうですね。
私はここにいたら、自分に必要なものはないだろうと思います。
でも放ってしまっていいのかどうかが、わからないのです。
放ってしまわずに、何か手を打ってはどうですか?
人に頼むということはできないのですか?
私を慕っている人に、人を紹介するということができない気持です。
なぜですか?
私に投げかけてくれる思いを、どうしたらいいかと思います。
高澤様が成仏してから、来てあげたらどうですか?
私にできないことを他の人ができるのならそれでいいのですが、それで満足できるかどうか。
なぜそれで満足できないのですか?
私がいいからではないでしょうか。
人それぞれいいところがありますから、他の人でもいいのではありませんか?
私でないといけないということは、ないのですね。
そうだと思います。
試しに人を呼んでみたらどうですか?
それで頼りにならないと思うかどうかを確認してみるとどうですか?
今、呼んでみてください。
私の代わりに私の周りの人達を助けてくれる人が来てほしいと言ってみてください。
言いましたか?
はい。
誰か来ましたか?
私のそばにいる人が何人か来ています。
この人達が、私の周囲の人達を助けてくれると言っています。
どんな感じの人達ですか?
信用できそうですか?
私を見ています。
話してみてください。
私と一緒に来たいと言っています。
それで、どうなりましたか?
私についてこようとしている人達は、あなたとは別の人生を歩んでいるのだから尊重してあげなさいと言っています。
その人達と一緒に歩むことがその人達の人生を良くするとは限らないとも言っています。
私の人生を良くすることにつながるのならいいけれども、そうもなりにくいと言っています。
私とその人達の人生を共に良くするには、別々に歩むことができるようになることだと言っています。
それが自主独立の精神を持つということで、そうなってからお互いに求めるようなら友人として一緒にいようとすればいいと言っています。
私と共に来て、私に何もかもを任せてしまって良いというような人生では、何も実らないと言っています。
私についてくればいいだけの人生は、私を食い物にしているだけで、私にとってはこの人達のようにならないようでなってしまっているのだと言われました。
私とも一緒にいられて、他の人とも一緒にいられるようでなければ、人間とは言えない。
私もその人達と一緒でなければ何かをしたと思えないのであれば、私の人生は自主的なものではなくて人に頼ってできているだけだと言われました。
このような人達が私のところに来ています。
それで、どう思いますか?
頼りないですか?
いいえ、私が間違っていました。
この人達の言う通りです。
私が周りの人達に頼っていたところがあります。
それが良くなかったと思いました。
そうですか。
それでは慕ってきてくれる人達のことを、その方達に任せますか?
そうしようと思います。
どちらにしても、私にとってもあの人達にとっても良い人達だと思います。
そのようですね。
それでは今日はここまでにさせていただきますが、知らないのに知っているような人が迎えに来てくれたら、ついて行ってくださいね。
わかりました。
それでは終ります。
ありがとうございました。
前回の供養の記事を書いている時に、精神的な進歩は自分個人のことなのに人が中心になっているのが良くないと話せば良かったと思ったことを忘れていて話せませんでした。
他者中心の価値観になっているのが良くないのでした。
でもそれが、今回はご自分でわかったようで良かったです。
画像は、公園で咲いていた椿です。