公園で咲いていた、ネモフィラです。
前回の記事でご紹介した「悪魔に愛された女」を読んで、一番印象的だったのは獣のあり方でした。
「悪魔に愛された女」についての記事はこちらです。
いくらもがいても反抗しても、自分が創造されることを可能にした宇宙の法則としての神の中からは逃れることができないと思うのにな~。
結局獣は、愛して愛してと言っているのだと思います。
自分が価値ある存在だと信じられないから、価値ある存在だと教えて教えてと言っているのだと思います。
だーれもいなくなったら、どうするのかなあ~。
誰も殺すことも支配することもできなくなったら、苦しくなるだろうなあ~。
反対に、ほっとするかも?
他者に対してすることは、自分に対してしているのと同じです。
人への攻撃は、自分への攻撃と同じです。
高次元の自分は唯一者と重なっているので、世界は自分だからです。
他者というのは無尽蔵に存在しながら、一方では世界に自分ひとりしか存在しないのと同じです。
他者を否定するのは世界としての自分を否定することなので、いつまでも苦しみが心の底にあって平安が訪れません。
他者を否定して無理矢理安定しようとすると、世界としての自分ではなく小さなかけらとしての自分しか認めないことになるので、そうすればする程、自分を小さく弱く感じることになります。
そこから逃れたくて、もっと他者を否定して攻撃したくなるという悪循環にはまります。
そのことに気づかないのかなあ~。
それとも、もっと他に考えがあるのかなあ~。
聞いてみたいんです。
理解したいなあと思います。
気になって気になって、放っておけないような気持になっています。
でもそんな甘っちょろいことを考えていたら、ミイラ取りがミイラになってしまうのかな。
ミイラ取りという気持ではないんですけど。
プレアデス星人がオリオン星人の争いに介入した時みたいに、痛い目に遭うのかもしれないのかな。
以前、私をだましていた霊と話したら、放っておいてくれるのが愛情だと言われたのでした。
神が放っておいてあげているのだから、そうなんだろうなあと思いました。
獣さんも、放っておいてあげるのが一番いいんだろうかと、考えるんですよねえ。
尊重してあげるなら、そうでしょうねえ。
こんな気持になるのは、自分が被害を受けていないからだけかもしれません。
おせっかいなことはしないでも、思うことはできると思います。
獣さんがいつか、誰もいなくても何もしなくても曇りのない心からの喜びに満たされることをずっと待っていると思います。
忘れられない存在になりました。