公園で咲きはじめた、河津桜です。
時々、人に奉仕しましょうという言葉を見たり聞いたりするのですが、それはあまり良いことではないんだけどなあと思います。
というのも、自分と人を分離しているから、自分を置いて人に奉仕するという考えになるのだと思います。
それでは心のどこかに無理が生じます。
自分と人を分離するのは、自然のありのままの状態ではありません。
それでは利己的になってしまうじゃないかと思われるかもしれません。
利己的というのは、自分と人を分離して人を排除して自分を優先することですから、そもそも自分と人が分離していなければあり得ないことです。
自分と人を分離するのは、目で見て肉体がそうなっているからそうだと思うのだろうと思います。
でも、自分の周囲に見えている人や物やこの世の中全体が、本当に存在しているという証拠はどこにあるのでしょうか。
ちゃんとそう見えているじゃないかと言うかもしれません。
この肉体の目や物理的な機械が、本当のことが見えているということをどうやって証明できるのでしょうか。
本当は、人生というのは映画の中に生まれ落ちて、映画の中にいることを悟ったら映画から出られるようなものだと思います。
そして肉体の目は映画を見破ることができないので、現実だと思っているわけです。
これは、この世が幻想だということについての最近思いついたたとえで、なかなか満足しています♪
それでは現実とは何なんだとなると、他の話になってしまうので、話を戻します。
※ この世が幻想だということについては、「この世は霊界の中にあります」をお読みください。
要は、みんな自分だということです。
自分なのに嫌な奴がいるのがなぜなのか、それは自分の細胞のひとつのことを何もかも知り尽くしているかというとそうではないですね。
だから、本当に存在していることがわかっているのは自分ひとりで、周りの人達は自分の中のよく知らない部分です。
試しにそう思ってみてください。
世界は全部自分。
周りの人は、自分の中のよくわからない部分。
そう考えると、安堵しませんか?
この感覚が、悟りでもあります。
この感覚のまま生活すると、人への奉仕は、見た目は人への奉仕でも自分の気持としては自分への奉仕です。
人への奉仕など、存在しないことになります。
そしてどんなに自分に対して奉仕しても、人に対して利己的になることはありません。
それどころか、自分に奉仕すればするほど、人に奉仕していることになります。
嫌な人から離れてはいけないことはありません。
でも、本質的なところで分離して考えないで、自分の中でまだよくわからない自分の一部から離れるという気持でいるので何があっても安らいでいます。
自分を愛し、認め、受け入れ、尊重することが、人への奉仕に直結しています。
自分と人を分離していたらだめじゃないかと思うかもしれませんが、自分と人は分離していないのが自然でありのままの姿なので、自分を愛し、認め、受け入れ、尊重することができるようになると、自然に自分と人を分離して考えなくなります。
だから人に奉仕するのではなくて、自分に奉仕しましょう。
そのとっかかりが、自分を愛することだと思います。
※ 自分を愛する方法は、「自分を愛し、尊重し、認める」 「自分を愛し、尊重し、認めて親離れする方法」 「許す手放すと言っても、それが難しい」 や「心の進歩成長」カテゴリーをお読みください。