公園で咲いていた、椿です。
オーラが赤色になると自分の専門を追求しはじめて、みんなと一緒ではなくなります。
その時から孤独がはじまります。
専門や独自性を追求するほど、また精神的に進歩成長するほど、みんな一緒からどんどん離れて孤独になります。
※ オーラの色については、「霊界の構造とオーラ」カテゴリーをお読みください。
孤独になりたくないので、外向的な人は外で人とつながって共感したがりますが、外向的になるほど孤独感は強まります。
共感は確かにあって一時的に孤独を忘れられるのですが、満足と同じ位の孤独もやってきます。
外に求める程、孤独は強くなるので、外向的な人は寂しがり屋です。
ハグしたり手をつないだりは、外のことです。
孤独は心の中のことなので、外のことでは決定的には変えられません。
外向的であることがいけないわけではありません。
外向的にになった方が良いところでは、外向的でいましょう。
人付き合いの場面や、現実的な作業をする時などがそうですね。
でも、外向的でない方が良いところで外向的になると、うまくいかないのが当然です。
心の中のことを、他のことと同じように外向的になって解決できると思うのが間違っています。
心の中のことは、内向的になって解決しましょう。
外のことは心の中の反映でしかありません。
外から変えようとするよりも心の中から変える必要があり、心の中が変われば、孤独はなくなります。
孤独は、自分の考え方が変わるとなくなります。
「世界が自分で自分の家」なら孤独はないのです。
みんな自分で、みんな家族です。
なかなか理解し合えないこともあるでしょうが、それでもそれは理解し合えない自分で、理解し合えない家族です。
※ 「世界が自分」については、こちらで書きました。
理解し合いたいのでしたら、自分が理解すればいいんです。
相手を理解していますか?
相手は自分の一部なのですから、自分から理解してあげれば間接的に自分も理解されたことになりますから、理解し合えたことになります。
屁理屈に聴こえるかもしれませんが、実際にやってみると本当に満足して、理解されたいと思わなくなります。
そもそも、自分と人を分離していることが、孤独の原因です。
ただ、世界が自分だということは悟ってからわかることです。
でも悟りというのは、本当はこうだったとわかる感覚ですから、誰でも本当ははじめから世界が自分なんです。
※ 悟りについては、「悟り」カテゴリーをお読みください。
世界が自分だというのは、集合無意識を感じているのではないかなあと思います。
肉体は別々だけれども、心の中は人と人はつながっていて重なっているのだと思います。
人が死ぬと、誰でも誰の心の中のことでもわかります。
私は、霊聴だけではなくてテレパシーも使いながら霊と話していますから、スムーズに話せます。
相手の心の中が読めるのは、心がつながって重なっているからです。
肉体を持って生きているうちは、それがわからないようになっていますが、話すよりもお互いの心を読み合うのが本来の姿だと思います。
だからきっと「世界が自分で自分の家」と思うと、自分と世界は別々だと思うよりも心が気持ちいいと思います。
目に見えていることよりも、自分の心で感じることを大事にしましょう。
目に見えていることは、パラパラまんがを動画だと思っているのと同じような、幻想なのですから。
外ではなく、心で感じることの中に真実があります。
だから、「世界が自分で自分の家」と考えると孤独ではなくなるのなら、そう考えているといいと思います。