公園で咲いていた、アジサイです。
私は子供が自分で自分を尊重することができるように、その結果自分で感じて自分で考えて決断し、自分を愛し、人のことも尊重して愛することができるように、尊重してきました。
それで子供たち本人がどう思っているかと言うと、子供にとっては生まれてからずっと当り前のことだったので、自分が尊重されてきたという自覚はないみたいです。
それどころか・・・、放任されて育ったと思っているみたいです!
それで、尊重される感覚というのは放任されているというのに近いんだなということが、最近になってわかりました。
そう言えば、しつけをしないといけないよというようなことを言われたことがあった気がします。
尊重は、子供を大人扱いするようで冷たくて可哀相と見えることもあるようですが、本人にも人からも放任に見えることが多いようです。
ここまで書いていて、以前息子が母親にうるさく言われたいというようなことを言っていたのを思い出しました。
テレビや漫画などに出てくる母親に憧れて「ああ母親はうるさい」と言ってみたかったみたいです。
不幸じゃないから不幸になりたいというような感覚でしょうかねえ。
実際にそんなことをしたら、頭に角が生えるに決まっていると思います。
私自身は、全然尊重されずに育ちました。
私が希望することは、何もかも反対されました。
でも教養のない親だったので、ほめたり叱ったり「~しなさい」と言われることもありませんでしたから、それは不幸中の幸いだったと思います。
自分で感じも考えもせずにエライ人の言うことをうのみにする教養ある親よりも、取りあえず愛情があるならば教養がなくても不器用でも自分で感じて考えて行動した方がましだったということです。
私は自分で感じも考えもせずにエライ人の言うことをうのみにする教養あるタイプの親には絶対に耐えられないので、こういう親を選んで生まれてきたのだろうなあと今となってはしみじみ思います・・・。
尊重されて育った子供達と、現在共同生活している犬の二人と一匹とで共通しているのは、とにかく自己主張が強いということです。
自分はこうというのがはっきりしていて、人や世間の言いなりになりません。
二人は生まれた時からずっと自分で感じて考えるのが当り前だったからだと思いますが、1年半前から同居して同じように尊重している犬も自信たっぷりです。
こういう性格は、集団になるとまとめるのが大変なので、コントロールしやすいように自分を尊重しないようにしつけるのだろうと思います。
それは誰の為かと言うと、第一に集団や先生や社会のため、それがついでに本人の為にもなるという感覚でしょう。
こうしてコントロールしたいという利己的な理由で、子供は自分を後回しにすることを教え込まれ、自分を尊重することがわからないから人のことも尊重できない、自分をしっかり愛することができないから人のことも愛することができない人に作り上げられて行くのですね。
コントロールしたいというのは、自分や自分たちが幸せになりたい、愛されたいということです。
そのしつけは、本当に本人を尊重しているのでしょうか。
本人の快適な人生の為ではなくて、自分や自分達の快適な人生の為ではないのでしょうか。
尊重された人は、尊重することを自然に学びます。
利己的に扱われた人は、利己的な生き方を学ぶことになると思います。
人や社会から利己的に扱われたことが、いじめや犯罪の原因になっていると思います。