お散歩してから(お母さん都合で無理矢理)ベンチで休憩中のナッツです。
悪を憎み正義を愛するのは子供です。
正義の味方は子供です。
でもこれが簡単だから、単純な人や子供はこの形にはまることにしてしまいます。
善悪の善の方へ自分をはめこむことにしたら、自分は善だと思って安心していられますから。
自分を正義に一体化させてしまうと、どうしても反対側に悪が存在することになってしまいます。
正義感の強い人は、ずっとイタチごっこをしないといけない運命です。
自分が悪を創り出しているのだから。
善を尊び悪を滅ぼすことに一生懸命になっても、終わりがありません。
都合の悪いことは全部悪のせいにすれば簡単です。
それで自分の中の悪に目をそむけて、外の悪に責任を負わせます。
そうすれば自分はいつでも善でいられて、いい気分ですから。
悪がなくなったら、自分が善でいられなくて困りますから、みんななるべく本当のことを見ないようにしています。
犯罪は悪だと言ってしまえば、自分は善人の世界で生きているのだから安心ですね。
悪の体験は、許すことができるようになる為にあります。
その人がどれだけの悪を許すことができるかは、その人の成長度による愛の深さで違ってきます。
許せないことがあるというのは、進歩成長のための具体的な課題になります。
進歩成長というのは、どれだけ善になって悪を排斥できるかではなくて、その反対です。
小さな悪なら割と簡単に許せますね。
でも犯罪のような大きな悪なら、難しくなってきます。
それでも最終的には、許すことができなければ心の平和はやってきません。
許しは神への許しで、神に近づくことでもあります。
その許せないことも、神の一部ですからね。
何かが許せないということは、神を許せないということです。
許せなくて苦しい時は、悪のルーツを見ましょう。
すると、それは完全な悪ではなかったことがわかります。
誠実で公平な気持になってよーく見てみたら、悪にも善が混じっている感じがします。
もっとよくよく見てみたら、悪にもそれなりの理由があったことがわかってきます。
それなりの理由があったら、それでもうすでに悪ではなくなりかけています。
その人にとってはそれが善だったということが、わかることが多いと思います。
未熟が原因という時も多いと思います。
未熟な人にもっと進歩成長した人と同じことを要求するのは無理です。
そんな要求をすることこそ、未熟です。
善と悪というのは見る方向が違っているだけで、絶対的な善や悪ではありません。
あっちから見ると善で、こっちから見ると悪だったりします。
そうなってしまうこと自体を許してあげたら、許せた分だけ自分の心が平和になります。