公園で咲いていた、アジサイです。
前回は、子供をほめたり叱ったり「~しなさい」と言ったりしないで、尊重した方がいいと書きましたが、もしかしてそれだと可哀相とか寂しいとか思われた人がいるのではないかなあと思いました。
私はよく人から「子供を子供扱いしないで尊重してるみたい」と言われました。
でもそういう人は、たぶんその後に「子供が可哀相」「冷たい」という言葉を呑み込んでいるような感じがしました。
この世の8~9割の人は自分を尊重することがわかっていないんですから、当然だろうと思います。
自分を尊重することができないと、人や常識や社会に依存します。
自分を尊重しないと自分の本当の気持がわからないので、物事を判断するのに人や常識や社会を頼りにするしかありませんから。
するといつも寂しくて、人や常識や社会を求めて温めてもらおうとします。
それに応えてあげないように思って、可哀相と感じるでしょうね。
でも、自分を尊重していれば人や常識や社会に依存する必要はないし、自分の温度はいつも自家発電でぽかぽかで寂しくもありませんから、人や常識や社会に温めてもらおうとも思いません。
そういう感覚ががわからないから、ドライで冷たいように想像するんでしょうね。
物心ついた時からいつも寂しいのが当り前のことなので、それが苦しみなのだということも、いつもみんな苦しんでいるのだということも自覚がないのだろうと思います。
その苦しみや寂しさを埋めてくれるのが愛情だと思っているんでしょう。
苦しみや寂しさを埋めてくれる愛情に依存して離れられなくなるのも苦しみなのに、やはり自覚がないか、そういうものだと思っているんでしょう。
子供だから必要とする愛情は当然ありますから、そのことは尊重して受け入れてあげます。
尊重をするのだから、拒否するわけではありません。
尊重されるというのは、相手を尊重しない事以外は何もかもを拒否することなく受け入れてもらうことなのですから、とても心地のいいものです。
自分が自分を尊重していないと寂しくて、子供にも依存してしまいます。
その依存が、子供に依存させます。
これが共依存で、お互いにお互いがいないと寂しくて温め合って、親離れ子離れができなくなります。
寂しさを埋めてくれる共依存気味のお母さんのような温かさが、どこでも大人気です。
でもそもそも寂しさを感じず心がいつも温かで、人や常識や社会に温めてもらう必要がないとしたら、どんなに楽でしょうか。
そういう人にしてあげるのがしつけだと私は思いましたから、子供のことは尊重しました。
これが親が子供にできる最大のプレゼントで、他のことはそんなにいらないと思っていました。
子供達はまだ完全な大人にはなっていなくて試行錯誤の最中ですが、自分の感じていることは主張でき、自分で考えて行動できるようにはなってくれたのではないか思うので、あとはどうなろうと自分の好きなように生きて行くのを尊重するつもりです。