
出雲伝承による神武の東征。それが海幸彦山幸彦のお話にされました
兄の五十猛の子孫(海部氏、尾張氏)と弟のヒコホホデミの子孫(物部氏)が関西で争って、物部氏が勝って大王になったことをおとぎ話にしてあります。海幸彦は海部氏のこと、山幸彦は物部氏のことです。
兄の五十猛の子孫(海部氏、尾張氏)と弟のヒコホホデミの子孫(物部氏)が関西で争って、物部氏が勝って大王になったことをおとぎ話にしてあります。海幸彦は海部氏のこと、山幸彦は物部氏のことです。
当局で、一般市民のメールや電話や通信内容をすべて傍受しているということです。これは以前から、日本にも設置済みだと言われていました。それを言ったご本人(池上さん)が、番組に出演されていました。
吉備王国の出雲侵攻がはじまり、出雲は滅ぼされました。この時の吉備津彦の出雲攻めが、桃太郎の話になりました。桃太郎が征伐した鬼というのは出雲のことです。
海部氏が、先祖のスサノオとイソタケ(五十猛)を祀りました。これが姫路の広峯(ひろみね)神社のはじまりです。広峯神社から綾戸国中(あやとくなか)神社、梛(なぎ)神社を経てだったと思いますが、京都の東山へと神霊が移されました。
思ったら会うんだぞ。楽しいだろうと思うんじゃないのか。あっと言う間に会えたら、すぐに楽しくなるんだ。それがとてもいいところということなんだぞ。嫌なところだと思う方がおかしいんだ。
夜の散歩の時、あれはそうだなというのが見えて帰ったらすぐに撮ろうと思いましたが、忘れてしまいました。その後しばらくしてから思い出して、今きっと出現してくれていると思ってカメラを持って出たら、さっき見たのとは別のもっと大きいのが出ていました。
徐福(スサノオ)の子である五十猛(イソタケ、カゴヤマ)の子の天村雲(アメノムラクモ)は、数年かけて丹波の人々を葛城周辺へ移住させ、出雲族よりも丹波の人々が多くなったので初代ヤマト王になりました。
出雲から三島(高槻市)、葛城へと移住した事代主の子のクシヒカタは、出雲の太陽の女神と父の事代主(大物主)を三輪山に祀りました。これが大神(おおみわ)神社のはじまりです。
よく噛んでペースト状にしてから食べると、栄養の吸収がいいので少しで足りるのだろうと思います。腹八分目で充分なのに、余分に食べたら食べすぎで胃もたれと頭痛になります。
徐福=スサノオ=火明=饒速日(ニギハヤヒ)です。徐福の北九州の妻の子がヒコホホデミで、物部(もののべ)氏の先祖です。天皇は、ヒコホホデミの子孫で物部氏です。
だんだんと気持が慣れてきて、空のことを忘れてしまいそうでした。そのうち私の方が忘れてしまって、連続記録が途絶えるのかもしれません。
天皇は、明治になるまで伊勢神宮にひとりも参拝したことがありませんでしたが、天照大神が先祖ならばそれは異常なことだと思います。でも先祖ではなくて、天皇家が散々抑圧してきた出雲の神なのだから当然のことだったわけです。
徐福(スサノオ、ホアカリ)は丹後にいた時に部下の穂日(ホヒ)に命じて、大国主(8代オオナムチの八千矛(やちほこ))と事代主(8代スクナヒコの八重波津身(やえなみつみ))を同時に暗殺しました。穂日の子孫が、今現在の出雲大社宮司家です。
徐福(スサノオ)は道教の方士でした。徐福たちの一行は出雲の信仰を嫌い、竜神の飾りを切って回りました。また出雲族の家に押し入って、出雲の女性たちに自分達の子供を生ませました。
こうやって毎日笹の葉形の雲を撮っているけれども、本当に宇宙人たちのサインなのかなあ、ただの雲なんじゃないかなあと考えていました。すると、こういうのが見えました。
徐福は日本では、ホアカリ(火明)と名のりました。ホアカリは、丹後の天橋立の北側にある、籠(この)神社や尾張一ノ宮の真清田(ますみだ)神社のご祭神で、海部(あま)一族や尾張一族の先祖です。
どんよりとした曇り空で、今日こそ1枚も撮れない日になるかなあと思いながら散歩をはじめたら、すぐに目の前に笹の葉形の雲がいました。1枚も撮れないかもと思ったのに、今までで一番多くなりました。
出雲の王制は2王制で、ひとりは主王のオオナモチ、もうひとりは副王でスクナヒコです。オオナモチとスクナヒコは役職名で、個人名ではありません。
もう1~2枚でいいと思っているんですが、割とノリノリで、いっぱい見せてくれているような感じがします。こんなこと言っていられるのはたくさんあるからで、雲ひとつない青空だと、しょぼーんなんですが。
インドへ侵入したアーリア人から逃れて、バイカル湖経由でアムール川を下り「いかだで」北海道から日本へ入ったそうです。