ヤマト

日本史

ヒミコはヤマトにも九州にもいた

安芸の埃(え)ノ宮で没した宇佐豊玉姫(ヒミコ)の遺体は、アキの宮島に、仮埋葬された。そのあとで宇佐神宮に遺骨が移され、二ノ御殿に宇佐王家の先祖神とともに祭られた。
神社仏閣

出雲口伝による神武の東征。それが海幸彦山幸彦のお話にされました

兄の五十猛の子孫(海部氏、尾張氏)と弟のヒコホホデミの子孫(物部氏)が関西で争って、物部氏が勝って大王になったことをおとぎ話にしてあります。海幸彦は海部氏のこと、山幸彦は物部氏のことです。
神社仏閣

葛城と三輪山を中心としたヤマトに、丹波勢と出雲勢の連合王国が成立

徐福(スサノオ)の子である五十猛(イソタケ、カゴヤマ)の子の天村雲(アメノムラクモ)は、数年かけて丹波の人々を葛城周辺へ移住させ、出雲族よりも丹波の人々が多くなったので初代ヤマト王になりました。
タイトルとURLをコピーしました