祈っている時の涙は相手のもの―参拝や供養で涙が流れる理由

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このごろXで毎日、過去の祈りの記録を投稿しています。

しかし、私が参拝や供養中に時々涙を流している感覚が、皆さまにはよくわからないかもしれないと思いました。

 

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あちらが感激して涙を流させられている

以前に、「めそめそ泣いて」と言われたことがあり、私が感極まって涙を流しているように思われるのが残念です。

それで、Xでは(祈っている時の涙は相手のもの)と書くようにしました。

 

霊感が働いている時には、相手とひとつの心を共有しています。

相手が感激していると、こちらにもその感激が伝わってきます。

霊界の存在は、この世の存在よりもはるかにパワフルなので、霊界の存在が感激するとこの世の人間には耐えられない位の強い感情になってしまうので、こちらでは涙が流れます。

私が相手の心を感じているのではなくて、お互いの心がひとつになって感じ合っています。

こちらで感激して涙を流しているのではなくて、あちらが感激して涙を流させられています。

 

心だけではなく、他の感覚も共有しています。

だから相手の調子が悪いと、自分ののどが詰まったり体のどこかが痛んだりします。

相手の様子を探る必要はなくて、自分に注目していると相手の状態がそのまま自分にコピーされてわかります。

感覚がすべて共有状態になっているからです。

そのようにして、参拝したり供養したりした時の相手の状態を判断します。

 

相手との心の共有は、実は普段の生活の中でいつでも誰とでも起こっています。

そもそも、心というのは肉体と違って、はっきりした境界線がありません。

人は目で見た通りに、自分とは体で、自分の体の外側が自分の境界線だと思っているでしょうが、心の境界線はもっと外側まで広がっています。

体の中に心があるというイメージでしょうが、心は自由自在で体の中にだけいるのではありません。

心は一緒にいる人と簡単に重なり共有しますから、ねんどみたいにたくさんの心が重なり合うこともできます。

でも自分も人も肉体で心は自分の肉体の中にあると強く信じているのでしたら、信じた通りの霊感のない人になって、共有している心や感覚を感じることもできません。

 

だからほとんどの人は、相手と自分の感覚が重なって共有状態になっている状態を、よく知りません。

でも霊的な感覚を持って生きている人は、肉体よりも広い自分の中に自分は肉体だと思っているような人やネガティブな思いで生きている人が大勢入って来ると疲れてしまいます。

これが人疲れです。

 

相手が神仏で喜んでくれている場合は、人疲れの反対のことが起きて、何もかもがきれいさっぱり浄化されて体調も心の状態も良くなり、幸せいっぱいになります。

神仏が共感させてくれる調和と浄化のエネルギーは、人生上で体験できる最高の波動に違いないと思います。

私は今までに、あれ以上に素晴らしいものを経験したことはありません。

素晴らしいものでも強すぎると苦痛になりますから、神仏の方で強さは調節してくれています。

そしてその天にも昇るような感覚を持続させず、しばらくするとすうっと消してしまうのもまた、神仏の素晴らしいところだと思います。

 

 



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