3月22日に亡くなった犬のナッツ(チワワ・16歳)との、亡くなってから5日目と6日目の会話です。
ナッツの火葬
3月27日は、ナッツの火葬の日でした。
やっぱり涙が止められませんでした。
ここ数日で涙腺がゆるんでいるので、締められません。
骨は何年かこのまま置いておいて、気が済んだら粉砕してもらってから海に流そうと思っています。
火葬してもらったお寺でペットのお墓の名前を見てみたら、ひと月で150件位のような感じがしました。
それはお墓だから、共同墓地や私みたいにただ火葬だけという人も入れたら何倍にもなると思います。
火葬が終ってから、ナッツと話しました。
「ナッツはもう、どうだっていいんだったね。
でも、体をポイッてされると嫌でしょ。」
「何ともないんだ。」
「そりゃもう体から出てしまってて痛くはないだろうけど、嫌な気分でしょ。」
「仕方がないんだ。」
火葬からの帰りに、ナッツが言いました。
「これでもうお母さんは大丈夫になったんだ。」
「そうなの?」
帰って来てから、何だか今朝までとは違う感覚になっていました。
ナッツがいないことに慣れてきました。
どうしてなんだか、わかりませんでした。
ナッツの体がなくなったから?
骨になったら、こんな感じがするもの?
火葬してもらったお寺で参拝したから、ご本尊が何かしてくれた?
しばらく不思議に思っていましたが、たぶん強い火で心まで浄化されたんじゃないかと思いました。
でも夜の散歩はいつも通り一緒で、ナッツとなんだかんだ話しながらでした。
犬友さんに会ったので、ナッツが亡くなったことを初めて人に話しました。
ふたりとも涙ぐんでいました。
次の日の朝、朝ごはんをあげたら声が聞こえずに、いつものような気配だけでした。
通訳が通訳しなくなっているような感じでした。
ナッツに作ったごはんがまだ冷凍で残っているので、なくなるまであげています。
公園では、ここをこうやって歩いたねと話ながら散歩しました。
買い物も一緒にしました。
「ナッツが車で待ってる間、こうやってお買い物をしてたんだよ。
つまらないでしょ。」
「そうだったんだ。」
「もっと楽しいことしてると思ってたんだね。」
「そうだけど、仕方がなかったんだ。」
「ナッツとお買い物できるところもあって、その時は良かったね。」
「そうなんだ。」
「でも犬は入っちゃだめなところが多くて、大変だったね。」
夜の散歩も一緒にしました。
今はまだ、ここをこうやって歩いたねと言いながら散歩していますが、だんだんとそれも慣れて飽きてきたらナッツのことを考えるのを忘れてしまうのかな。
でもナッツなしの散歩はものすごく感覚が違ってつまらないので、やっぱり思い出すでしょうか。
話はしないでも、感覚だけ一緒にいるとか。
ナッツは寒がりなので、去年の真冬の2ヶ月程は、私ひとりで夜の散歩をしていました。
その時に、あまりにもつまらなかったので、この感覚の違いは何だろうと不思議に思っていました。
いろいろ考えるうち、犬は群れで行動するので仲間と心を合わせるのが普通で、私も知らないうちにナッツと心がひとつになっていたんだろうと思いました。
この心がひとつになる感覚が、犬と一緒だと楽しいということになるんだなと思っています。
画像は遺影に使った写真で、2022年8月、これから散歩でワクワクしているナッツです。