古事記と日本書紀がそんなに良くないものなのか、わかりにくいでしょうから、これも出雲口伝からですが、古事記と日本書紀の成り立ちを書いてみたいと思います。
斎木雲州「古事記の編集室」から、記紀についての大ざっぱな話です。
柿本人麿が稗田阿礼という名前で「古事記」を書いた
古事記の編纂は、天武(てんむ)天皇が最初に命じましたが、2度頓挫しました。
その後、藤原不比等(ふじわらのふひと)が、対外的に国が認められるために国史が必要だと持統(じとう)天皇を説得したので、再々開することになりました。
そして柿本人麿(かきのもとひとまろ)が稗田阿礼(ひえだのあれ)という名前で「古事記」を書き、太安万侶(おおのやすまろ)が「日本書紀」を執筆しましたが、二人は監禁されていました。
イザナギ・イザナミの国作りはインド神話からなど、あちこちの外国の神話を元にして、日本神話の様々なエピソードがこの時に創作されました。
記紀に出雲神話が書かれていない理由
記紀に出雲神話が書かれていないのは、出雲国造(こくぞう、こくそう、くにのみやっこ。出雲大社宮司家)が、出雲の歴史と徐福の名前を書かないように提案し、それが通ったからです。
出雲国造は、徐福と共に渡来し、出雲の2王を呼び出し監禁して殺害した穂日命(ほひのみこと)の子孫なので、先祖の悪事を隠したかったのでした。
記紀ができた後、人麿は口封じに左遷され、太安万侶はさらに監禁されました。
政府は古事記は発表せず、日本書紀は太安万侶作としなかったので、安万侶は、人麿が作った古事記の写本に太安万侶作と書いた序文を付けて発表したそうです。
めでたい国史の編纂を、なぜ秘密にしたり執筆者を監禁したりしなければいけなかったのでしょうか。
記紀の制作現場は、うしろめたく犯罪的だったようです。
それなのにするりと受け入れさせられてしまうのは、人麿の天才ゆえなのだろうと思いました。
写真は、公園で咲いていたムクゲです。