公園で咲いていた、大島桜です。
ツラン(今のアフガニスタンあたり)からバイカル湖畔を経由して、1万数千年前から少しずつやって来ていた日本人は縄文人として生活していました。
3000年位前には出雲族が到着し、出雲族が日本で最初に王制をはじめました。
そこへ紀元前219年頃に秦から来日した徐福が、スサノオで火明でニギハヤヒです。
徐福の先妻の子が五十猛(イソタケ)で、丹後の海部(あまべ)氏や尾張(おわり)氏の先祖です。
徐福の北九州の妻の子がヒコホホデミで、物部(もののべ)氏で天皇の先祖です。
今までの歴史は、歴史カテゴリーをお読みください。
この連載の最初の記事はこちらです。

前回の記事の中で大神神社と狭井(さい)神社の祭神がごちゃまぜになっていましたので、内容を訂正しました。
正しくは以下の通りです。申し訳ありませんでした。
「出雲から三島(高槻市)、葛城へと移住した事代主の子のクシヒカタは、出雲の太陽の女神と父の事代主(大物主)を三輪山に祀りました。
これが大神(おおみわ)神社のはじまりです。
また三輪山北西の狭井座(さいにいます)神社(現在の通称・狭井神社)には出雲の幸(さい)の神三神である久那斗(くなと)の大神、幸(さい)姫命、猿田彦を祀りました。
太陽の女神は天照大神(あまてらすおおみかみ)と呼ばれるようになり、後に大神神社から出て伊勢内宮に祀られました。
ですから、天照大神は天孫系の先祖ではなくて出雲の神です。
大神神社は三つ鳥居が有名なのですが、幸の神三神を表しているようです。
現在の大神神社のご祭神は、大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)です。
現在の狭井神社のご祭神は、主祭神:大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ、大物主神の荒魂)配祀:大物主神(おおものぬしのかみ)、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)、事代主神(ことしろぬしのかみ)となっていて、サイノカミは入っていません。」
ここまで前回の訂正でした。
丹波の海部(あまべ)家では、徐福(スサノオ)の子である五十猛(イソタケ、カゴヤマ)の子の天村雲(アメノムラクモ)が王になりました。
村雲は数年かけて丹波の人々を葛城周辺へ移住させ、出雲族よりも丹波の人々が多くなったので、村雲がヤマト王になりました。
村雲の剣(草薙剣、くさなぎのつるぎ)は出雲式の銅剣で、出雲王家から五十猛へのお土産だったとも、ヤマトの初代大王となった村雲へのお祝いだったとも伝えられています。
村雲は高尾張村に住んだので、海部家の一部は尾張と名のりました。
草薙剣は、尾張氏が東海地方へ持ち運んで熱田神宮に祀りました。
天村雲王は、事代主の娘で三輪山の初代祭主の蹈鞴五十鈴(たたらいすず)姫を后にして、丹波勢と出雲勢の連合王国になりました。
媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)は現在、大神神社の北にある狭井(さい)神社に祀られています。
狭井神社の元の祭神は出雲の幸(さい)の神三神でしたが、幸の神三神は忘れられたようです。
二代大和王は、蹈鞴五十鈴姫の妹で三輪山の二代祭主の五十鈴依姫を后にしました。
三代大和王は、クシヒカタ(蹈鞴五十鈴姫の兄)の娘で三輪山の三代祭主の淳名底(ぬなぞこ)姫を后にしました。
「そのためカツラギ王家の3代以降は、海部家より事代主の子孫の血が濃くなった」
出雲と大和のあけぼの
この葛城連合王国は、丹波勢と出雲勢の宗教が同じで、良い関係が数百年続きました。
その宗教は幸(さい)の神を中心とする信仰で、幸の神とは久那斗(くなと)の大神(イザナギノ命)、幸(さい)姫命(イザナミノ命、天照大神)、猿田彦です。
秦から来た渡来人である海部家と宗教が同じとはどうしてなのかと思いましたが、徐福は丹波に妻子を置いて去ってしまったので、徐福の宗教(道教)が浸透しなかったようです。
徐福のいない状態では、五十猛の母は宗像三姉妹のタゴリ姫さんの娘ですから出雲式になったんでしょう。
つづきます。
この記事は、次の本を読んで書きました。超おすすめ本です。
50年後には、出雲の伝承が日本古代史のスタンダードになっているだろうと思います。