公園で咲いていた、モミジです。
大神神社のご祭神、大物主命について記紀ではこうなっています。
「『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。
大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。
『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。」(ウィキペディア)
出雲古老の伝承をまとめた「出雲と大和のあけぼの」(斎木雲州)では、こう説明されています。
「大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神」とありますが、出雲は2家による交代制の2王制で、片方が王のオホナムチでもう片方が副王のスクナ彦という役職名で呼ばれていました。
片方の家がオホナムチの時は、もう片方の家はスクナ彦でした。
大国主は、オホナムチ8代目の八千矛に記紀がつけた名前です。
ですから、オホナムチ8代目と八千矛と大国主は同一人物です。
同じようにスクナ彦8代目の八重波津身に記紀がつけた名前が、事代主です。
ですから、スクナ彦8代目と八重波津身と事代主は同一人物です。
これで、歴史の謎がすうっと解ける部分がいろいろとあると思います。
だから、「大国主とともに国造りを行っていた少彦名」というのは本当のことですが、少彦名(すくなひこな)は書き間違いで、少彦(すくなひこ)だそうです。
「少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた」と書いてありますが、事実はこうだそうです。
大国主が、中国から帰化して大国主の娘を妻にした徐福(須佐之男。火明。ニギハヤヒ)の部下の穂日によって殺され、大国主を捜索に出た事代主も続いて殺されました。
ふたりとも、ほぼ同時に殺されたそうです。
「大国主と事代主の不慮の死に遭い、出雲先住民の一部は渡来集団との供住を嫌って、ヤマト国のカツラギ地方(今の御所市付近)に移住した」(「古事記の編集室」)
「三輪山には、タタラ五十鈴姫の父君・事代主の霊を、大物主の名前で祭った」(「古事記の編集室」)
というのが、大神神社の大物主のはじまりだそうです。
だから「大物主は大国主神の別名」というのは、まあ事代主の家がオホナムチになることもあったのだから、全然見当違いではありませんが、大国主はオホナムチ8代目の八千矛のことですから、やはり違っているということになります。
大物主はニギハヤヒなのではないか、ニギハヤヒは須佐之男の息子ではないかと言われていろんな本が出ましたが、事実は記紀に書いてある通り、事代主だったのでした。
大神神社摂社の狭井(さい)神社にはもちろんサイノカミ3神が祭られたそうですが、今のご祭神は大物主の荒魂(あらみたま)で、他に大物主神、媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)、勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)、事代主神とされていて、サイノカミ3神の名前は消えています。
サイノカミ3神については、こちらで書きました。
記紀に書いてあることが本当で、みんなの疑いが間違いだったわけですね。
記紀の編纂者達がめちゃくちゃにした為に、どこが本当でどこがウソなのか、サッパリわからなくなっているのが日本の古代史です。
本当のことが言える時代になって、良かったですねえ。
もう過去のことは誰にもわからなくなってしまったと思っていましたが、こんな本当のことがちゃんと伝えられていて良かった!
本当に感謝です。