出雲伝承による神武の東征。それが海幸彦山幸彦のお話にされました

2017年1月26日に、馬肉を買いに犬用品店に行ったら、駐車場から見えた笹の葉形の雲(クラウドシップ、雲形UFO)いっぱいです。

はじめて棒状のUFOを見たのは、保護団体のオフ会からの帰りでした。

宇宙人たちは、私がナッツと生活していることを、喜んでくれているのかもしれません。

ツラン(今のアフガニスタンあたり)からバイカル湖畔を経由して、1万数千年前から少しずつやって来ていた日本人は縄文人として生活していました。

出雲の伝承によると、3000年位前に出雲族が到着し、出雲族が日本で最初に王制をはじめました。

そこへ紀元前219年頃に秦(しん)から来日した徐福(じょふく)が、スサノオで火明でニギハヤヒです。

徐福の先妻の子が五十猛(イソタケ)で、丹後の海部(あまべ)氏や尾張(おわり)氏の先祖です。

五十猛の子、天の村雲が、ヤマト葛城(海部氏と出雲系)連合王国の初代大王になりましたが、その子孫が出雲を滅ぼしました。

徐福の北九州の妻の子がヒコホホデミで、物部(もののべ)氏で天皇の先祖です。

出雲の伝承による今までの歴史は、歴史カテゴリーをお読みください。

この連載の最初の記事はこちらです。

日本人のルーツは、バイカル湖経由のツラン文明
地球最古の文明はシュメールだと言われています。けれどこれは違っていることがわかっているそうで、シュメール以前があるのだけれども、今現在はそれがどこの何人かがわからないのだそうです。

再来日した徐福(スサノオ、ホアカリ)は、九州に住んでニギハヤヒと名のりました。

宗像大社宮司家である宗形家の3姉妹のうち、市杵島姫姫(いちきしまひめ。弁才天)を妻としてヒコホホデミが生まれました。

記紀では市杵島姫はスサノオの3人娘のひとりにされていますが、妻なのでした。

その子孫にイツセとウマシマジの若い兄弟がありました。

弟のウマシマジが、記紀で神武と書かれました。

ふたりは物部王国をヤマトに遷都しようとして、兄のイツセが総大将となって進軍しました。

有明海を出て肥後と薩摩で兵を集め、四国の南を回って紀ノ川の河口から逆上ろうとしました。

神武の東征は日向を出て瀬戸内海を通ったとされてきましたが、それは別の時代で別の人物のことでした。

紀ノ川では、五十猛(イソタケ)の子孫との戦いがあり、イツセが戦死しました。

それで船団は、紀伊半島を回り熊野川を逆上って川の中州に住み、そこにイツセを祀りました。

これが熊野本宮大社のはじまりです。

「権現とは、名草の地で若くして亡くなった五瀬命である。
若王子とも言う。」

出雲と大和のあけぼの

熊野縁起ではこのことを隠して、(私の先祖なのですが)猟師が熊野権現と出会って祀ったとしています。

記紀の手前、本当のことは書けなかったのでしょうが。

記紀に反することを書いた各国の風土記は、没収されています。

イツセやウマシマジ(神武)と戦ったのは、徐福(スサノオ、ホアカリ、ニギハヤヒ)の子で、五十猛(イソタケ)の子で、高倉下(たかくらじ)の子の、珍彦(うずひこ)たちでした。

記紀では、高倉下は神武を助けたことになっていますが、敵だったのでした。

この家は後に紀伊の国造家になり、日前(ひのくま)神宮を建てました。

紀伊家と五瀬家は婚姻をくり返すうちに仲良くなったようで、五瀬家は日前神宮のすぐ隣にイツセを祀りました。

これが国懸(くにかがす)神宮のはじまりです。

ヤマト連合王国では内部分裂が起こり、物部勢に味方する者と敵対する者が分れました。

登美家は物部勢に味方をして、大鴨建津乃身(おおかもたけつのみ、やたがらす)がウマシマジ(神武)を先導してヤマトへ引き入れました。

物部勢は磐余(いわれ。桜井市南部)に住んだので、後にウマシマジにイワレヒコという名前がつけられました。

「第1次物部東征軍は、登美家の地盤である、三輪山の西南・磐余の地に住み着いた。
それで物部軍の指導者には、イワレ彦と名がついた。
記紀では、初代大王の天ノ村雲を消して、代わりに物部イワレ彦をあてはめて、神武天皇と書いている」

古事記の編集室

天ノ村雲を消したのは、海部氏が物部氏と戦った敗者だったからですね。

このことを、記紀では海幸彦山幸彦の物語にしてあります。

兄の五十猛の子孫(海部氏、尾張氏)と弟のヒコホホデミの子孫(物部氏)が関西で争って、物部氏が勝って大王になったことをおとぎ話にしてあります。

海幸彦は海部氏のこと、山幸彦は物部氏のことです。

つづきます。

この記事は、次の本を読んで書きました。

50年後には、出雲の伝承が古代史界のスタンダードになるだろうと思います。